歴史

BC14,000年頃

暮らしの黎明期

 五箇山では、多くの集落で縄文中期とみられる土器が出土しています。約4千年前から人が住んでいたと考えられます。当時は狩猟・採集中心の生活だったため、鳥獣、川魚、山菜、果実等の食物の入手が容易であった山間部の方が、平野部よりも生活に適していたと考えられます。

縄文時代
前数世紀
   
710年 

中世の五箇山

  奈良時代より平地域の人形山(標高1726m)や利賀地域の金剛堂山(標高1637m)などは修験道の霊場として栄え、五箇山にも山岳仏教が伝わりまし た。人形山は古くから、農耕用水・飲料水の水源を守護する神体山として遥拝した霊山です。さらに人形山は加賀・美濃・越前の白山を開いた、越の大徳「泰 澄」が開いたといわれ、白山信仰につながります。

 平安時代末期には源平の合戦で敗れた平家の落武者が、五箇山に逃れ住み着いたとする落人伝説や口承が多く残されています。史実として明らかではありませんが、五箇山は「落人のかくれ里」として知られています。

奈良時代
平安時代 
鎌倉時代
1333年
   
1336年

歴史のうねりに五箇山も無関係ではなかった

 中世後期ころからは、本願寺の勢力が五箇山に深く浸透していきました。1536(天文5年)からは毎年、五箇山から本願寺へ糸・真綿を納めていました。1552年(天文21年)の十日講起請文には、五箇山のリーダーとして下梨谷・利賀谷・小谷・上梨谷・赤尾谷の5地域から87名が署名しており、浄土真宗がすでに五箇山の全域に広がっていたことがわかります。また、織田信長と本願寺が争った石山合戦(1570年-1580年)では、五箇山産の火薬の原料、塩硝(えんしょう)がすべて集められ、伏木(富山県高岡)から海路でひそかに石山本願寺に送られ、本願寺のほかには一切売らなかったと伝えられています。
 ポルトガルから鉄砲が伝来したとされるのは1543年(諸説あり)。火縄銃を大量に持ち操った織田信長が勝敗を決めたと言われる長篠の戦いは1575年のこと。天然鉱石として、降水量の多い日本ではほとんど産出されなかった黒色火薬の原料、硝酸カリウムは、織田信長とは異なるルートでその人工的な生産の方法が五箇山に伝わり、改良されていったものと思われます。

室町時代

安土桃山

時代

 
   
1603年  

先人の知恵、ここに極まれり

  1585年(天正13年)から五箇山は加賀藩前田家の領地となりました。五箇山では山がちな地形から、米がほとんど獲れなかったため、養蚕、製紙、塩硝稼ぎ、蓑作り等で得た金銭で加賀藩に年貢を納め、残った金銭を米、その他の食糧や生活物資の購入に充てていました。江戸時代中期には完成した合掌造り家屋はこれらの製品を作るために建てられた合理的な住居兼工場だったのです。なかでも「塩硝(えんしょう)」と呼ばれている黒色火薬の原料、硝酸カリムウムは、その製法が他の地域にはみられない五箇山独特の産業だったのです。家々の床下に穴を掘り、その中に土・草・蚕糞を入れて化学変化を誘引し、土の中で生成された塩硝成分を結晶化させて灰汁塩硝(あくえんしょう)を作りました。灰汁塩硝は上煮屋(じょうにや)とよばれる資本力のある百姓が買い上げ、精製して上塩硝に仕上げ、金沢の土清水(つっちょうず)土蔵まで運ぶと加賀藩が買取りました。五箇山塩硝の起源については石山合戦の頃にも遡り、謎も多く、由来は明らかにはなっていません。豊富な山草、薪、労働力を利用して製造された上塩硝の大半は、1637年以降、毎年、加賀藩が買い上げる御召塩硝(おめしえんしょう)となりました。買上げられた塩硝は、更に御用商人の手を通して他領へ売り捌かれることもありました。1853年(嘉永6年)、ペリー来航により、攘夷運動が激化、外国船からの沿岸防御の必要性が叫ばれる中で、五箇山塩硝の需要は高ま り、この年の生産量は5391貫(約20トン)最高値に達しました。五箇山の塩硝は「加賀塩硝(かがえんしょう)」と呼ばれ、「本邦第一硝石ノ上品トス」(山田森重著『砲術明鑑、火硝製造編』文政五年刊)とその名を知られました。時代は変わり、明治になり廃藩によって買上げが行われなくなり、南米のチリか ら安価な硝石の輸入が始まると、300年にわたる塩硝稼ぎは1871年(明治4年)に終止符が打たれました。
 江戸時代の五箇山は加賀藩から流刑地に定められていました。五代加賀藩主綱紀は流刑に適する地を領内に求めました。「当国にて然るべき遠島がなくて流刑ができない。徒(かち)より上の武士を追放(流刑)する場所がないときは、死刑に処せねばならない。多数の士を死刑にしなくてもよいための適地を見立て、締(しまり)りをよくしてそこを流刑の地にしたい」との趣旨でした。1667年(寛文七年)以来、不行状を働いた武士や、加賀騒動で主殺しの悪名を着せられた六代藩主吉徳の側近大槻伝蔵などの政治犯がその子息らとともに五箇山の地に流されました。綱紀の思いは結果において遠島よりも重刑地となりました。廃藩となるまでの約200年間に、150名を超える流刑人が金沢から送られました。罪状の特に重いものは御締(おしまり)小屋へ入れられ、外へ出られませんでしたが、平(ひら)小屋入り流刑は集落内だけは出歩いてもよいとされました。流刑は「籠の渡し」しか道がなく、平野部へでる脇道もない庄川東岸の7つの集落が配所村となりました。「籠の渡し」は橋の代わりで、危ないながらも大河庄川を越える交通機関でした。起源は南北朝時代に遡るともいわれていますが、 加賀藩は塩硝生産地として機密を保持し、重罪人流刑地として流人の脱走を防止するため架橋を許しませんでした。藩政時代13箇所の「籠の渡し」がありました。流刑人は藤蔓などで編まれた「籠の渡し」に乗せられ、川の真上あたりで大きくゆさぶり、恐ろしいおもいをさせて逃亡をあきらめさせたと語り伝えられています。
 加賀藩は改作法で農民の金銀貸借など一切禁じましたが、五箇山住民には城端や井波の商人を通じ、借銀・貸米・貸塩が認められていました。その理由は塩硝や藩用の和紙の生産地として生産者の生活を保障し、流刑地として特別な配慮があったものと思われます。

 
 
 
 
 
 
 江戸時代 
 
 
 
 
 
 
 
   
1868年

維新と地域の変容

  1889年(明治22年)に町村制が施行されると、五箇山は平村・上平村・利賀村の3村に分かれ、独自の村づくりが展開されていきました。
 人々の生活は、明治に入って身分制度の廃止や地租改正、近代教育制度の発足等、社会制度上、大きく変貌しました。産業面では、廃業となった塩硝造りにかわり、養蚕、和紙などの産業は、より効率的な技術が導入され、江戸時代以上に五箇山の経済に重要な役割を果たしていきました。

明治時代
 
 
   
1912年

電源開発により近代化が進む

  大正末年から昭和初年にかけて、庄川の電源開発に伴い小牧ダム(1925年)と祖山ダム(1927年)の築造が開始されると、五箇山の生活や産業は大きく変貌していきました。生活面では、水没地の補償等で資本が流入したため、一部の地域で茅葺きの家屋が瓦葺き住宅へと変わっていきました。

  交通面では、建設資材運搬などのため、城端町(南砺市)と庄川町(砺波市)から五箇山に向けて自動車道路が開通したほか、ダムの完成後は二つの湛水湖を連絡船が運航し、平野部との冬期交通も確保されました。産業面では、中世以来の主要産業であった養蚕業が世界的な不況の影響で低迷を続ける一方で、自動車道の開通によって大量運搬が可能になったため、木炭製造など新たな産業も生まれていきました。

大正時代
昭和時代
戦前
   
1945年

文化的価値が世界に認められる

 戦中から戦後にかけては、都市部からの疎開者や大陸からの引揚者で人口が急激に増加し、深刻な食糧難となりました。1951年(昭和26年)からは国、県の指導により米の自給を目指して開拓が進められました。しかし1965年(昭和40年)頃からは人口減少が顕著となり、1970年(昭和45年)に最初の過疎法が制定されると、五箇山も過疎地域の指定を受けることとなりました。
 同年、1970年(昭和45年)には合掌造り家屋が多く残る、相倉・菅沼の合掌造り集落が国指定史跡となりました。1984年(昭和59年)には、待望の五箇山トンネルが開通すると、平野部へのアクセス時間は半減、冬期においても自動車交通が可能となりました。さらに1995年(平成7年)に相倉集落と菅沼集落が世界遺産に登録されると、一気に観光スポットとして国内外に知られるようになりました。東海北陸自動車道五箇山インターの供用が2000年(平成12年)に開始され、2008年(平成20年)には全線開通したことで、五箇山への交通は格段の進歩をとげました。

戦後
昭和時代
平成時代 

2017年

現在

   
  参照:南砺市五箇山 世界遺産マスタープラン 平成24年10月 南砺市発行
   平村史 昭和60年5月 平村発行
   上平村史 昭和57年3月 上平村発行