文化

浄土真宗とのかかわり

 

 五箇山の最高峰人形山(1726m)は8世紀、奈良時代の僧、泰澄によって開かれたと伝えられています。原始的自然崇拝から仏教の天台宗が関与した、白山信仰の山で、平安、鎌倉の時代を通じ汎浄土的念仏信仰が普及していきました。
 時代を経て、13世紀、鎌倉時代に起こった浄土真宗は、14世紀後半、本願寺第五世綽如(しゃくにょ)上人が現在の南砺市井波に瑞泉寺を開いたことで、地域周辺にも伝わったといわれています。しかし、浄土真宗の五箇山への伝播ルートには未だ謎が多く、浄土真宗を五箇山に定着させた人物に赤尾の道宗がいます。15世紀の半ば、五箇山に生まれた弥七(道宗の俗名)は京都山科の本願寺へ赴き、信心を得て本願寺第8世蓮如(れんにょ)上人の愛弟子となり名を「道宗」(どうしゅう)と改めました。その後、郷里の五箇山に帰り、道場(のち行徳寺)を設けてそこを拠点とし、布教に精力的な活動を続けました。道宗は自ら著した「道宗覚書二十一か条」の中で、蓮如上人の御心を体得したものとして、とくに次の言葉は不滅の金言です。
「ごしょうの一大事、いのちのあるかぎり、ゆだんあるまじき事」
世界的に名高い版画家棟方志功は、行徳寺を訪れた際に、道宗の人柄と信念に深く感動して、道宗の臥像とこの言葉を刻んで遺しています。また金沢生まれの禅の大家、鈴木大拙により、日本3大「妙好人」のひとりにあげられています。
 道宗の死後(1516年)、五箇山の宗教と政治の中心は、井波瑞泉寺の下寺、下梨の瑞願寺に移りました。16世紀に起こった本願寺と織田信長の石山合戦(1570-1580)では五箇山から本願寺へ火薬の原料の塩硝を毎年、志納したという記録が残っています。
 その後、加賀藩政初期のころには集落ごとに念仏道場が置かれ、人々の信仰の拠り所とされていました。
 現在も、家々では宗祖親鸞の恩に感謝し、親類縁者が集まって、毎年秋に報恩講が営まれています。こうした信仰心の厚さは、念仏道場の維持や家屋の大型化にも影響を与え、今日の集落景観の形成につながったとみられるほか、村人の相互扶助精神の維持や結束力の強化にもつながり、ユイ(結い)の維持にも少なからぬ影響を与えたとみられています。

 

 

 

 

五箇山和紙

 

 五箇山の和紙作りの起源は600年以上前、越前(福井県)での合戦に敗れた武士らが五箇山へ落ち逃れてきたとき、和紙の技法を伝えたという説もありますが、どのような技法で、どのような種類の紙が漉かれたかは明確ではありません。江戸初期には加賀藩主前田利長公へ半紙(中折紙=20枚一帖を二つ折にしたことから中折の商品名となる)が献上されたという記録が残っています。生産量の増加とともに、藩御用紙に買い上げられ、また一般商紙として平売りされたものと思われます。藩政時代、山がちな地形のため、稲作がほとんど行われなかった五箇山では、年2回、夏は塩硝および養蚕、冬は和紙により代銀を受け取り、加賀藩へ年貢を納めていました。和紙造りは冬期の大事な生業だったのです。五箇山の和紙は藩札にも用いられ、加賀藩の手厚い保護を受けながら発展し、時代を経ても良質和紙の産地として今日に至っています。
 伝統ある五箇山和紙は、同じく富山県の八尾和紙、蛭谷和紙とともに「越中和紙」と総称され、国の伝統的工芸品に指定されています。楮など原材料の生産にもこだわり、優雅な風格をもつ生漉楮紙は文化財の補修用紙としても使用されています。丈夫な五箇山和紙は養蚕を行う合掌造り家屋に明かりや通風を提供してきました。古くからの日本文化を伝える伝統的な提灯紙や傘紙は、現代にも受け継がれ、文人墨客にも好まれる書道用紙、便箋、封筒、版画用紙から、和紙絵画(ちぎり絵)に用いられる染紙も多く生産されています。また、製造工程の見学や紙漉き体験ができる施設で和紙づくりにふれることができます。現代の生活にその温かみを伝え、五箇山の土産物に国内外からのお客様に好評です。

(農)五箇山和紙 富山県南砺市下梨148 TEL: 0763-66-2016
五箇山和紙の里 富山県南砺市東中江215 TEL: 0763-66-2223
東中江和紙生産加工組合 富山県南砺市東中江582 TEL: 0763-66-2420

 

 

五箇山民謡

 

 五箇山は富山県を代表する「こきりこ」「麦屋節」発祥の地であり、30曲もの民謡民舞が伝承されています。1952年(昭和27年)にいち早く、麦屋節、こきりこが国の無形文化財に選定されました。さらに1973年(昭和48年)に「五箇山の歌と踊」の名称で、麦屋節、こきりこを含む12曲が国の無形文化財として選択されています。現在は4つの民謡保存会(越中五箇山麦屋節保存会、越中五箇山こきりこ唄保存会、越中五箇山民謡保存会、小谷麦屋節保存会)が正調を後世に継承することを目的に、数々の歌と踊りを保存しています。
 毎年9月に開催される五箇山麦屋まつり(下梨)、こきりこ祭り(上梨)および定期的に行われる世界遺産集落(相倉・菅沼)でのライトアップイベントなどで、民謡保存会により舞台披露が行われます。

 

 

 筑 子 こきりこ

 「こきりこ」は、越中五箇山・上梨の山里を中心に伝承された古代民謡です。この唄は『越の下草』や二十四輩順輩図絵、『奇談北国巡杖記』などの古文献に記載されおり、大化の改新(約1400年前)の頃にはじまった、田楽の流れを汲む日本最古の民謡といわれています。室町時代に創建された上梨白山宮の祭礼に、古くより歌い踊られてきましたが、戦前戦後の混乱期に途絶えかけた時期もありました。昭和初期に詩人で作詞家の西条八十氏が民俗学者の柳田國男氏著書の「踊りの今と昔」を読み、こきりこを探し、五箇山を訪問されました。このことを契機に戦後になり、地元の郷土史研究家が、上梨の山崎しい老が幼き頃より歌いついできた演唱を採譜して発表し、脚光を浴びることになりました。奈良時代の万葉集などにみる純真、素朴にして、大らかな古代日本精神を伝承する唄として、広くその文化的価値が認めら、1969年(昭和44年)には文部省が中学校の音楽教材に指定しており、現在は小学校の音楽の教科書に取り入れられています。
 毎年、春・秋の上梨白山宮の祭礼には、舞殿で踊りが奉納されます。五穀豊穣を祈り祝う純朴なこの民謡民舞には、直垂(ひたたれ)、括り(くくり)ばかま、アヤイ笠を身にまとった男性がキレよく豪快にササラを打ち鳴らしながら舞う「ささら踊り」、鬘(かつら)ひもを額に結び、紙シデをつけたこきりこを持ち、女性がしなやかにに舞う「シデ踊り」などがあります。演奏には鍬金、棒ざさらなどの古代楽器やしの笛、太鼓、鼓が用いられます。こきりこの名前は歌い手などが持つ、こきりこ竹に由来します。こきりこ竹(筑子)は放下師(大道芸人の一種)が用いた楽器で、五箇山では合掌造り家屋のあま(天井)に使われたすす竹を七寸五分に切り、手で操りながら打ち鳴らします。
 例年、9月25日、26日には上梨白山宮境内にて、こきりこ祭りが開催されます。
 また、四季を通じ定期的に「四季に舞うこきりこ踊り」実演会が開催されています。
伝承団体:越中五箇山こきりこ唄保存会 

鑑賞のお問合せ:「こきりこ踊り」民謡鑑賞申込(こきりこ館) 合掌家屋 村上家にて民謡鑑賞

サイトリンク:こきりこの歌詞

 

 

 

 麦屋節 むぎやぶし

 八百余年のその昔、京に栄華全盛を極めていた平家は木曽武者のため、計らずもその勢を失い、続いて、頼朝兄弟の為、長門の壇ノ浦に最後をとげました。1183年(寿永二年)5月倶利伽羅谷の戦いに木曽義仲の軍勢に敗れた平維盛の率いる残党は、末路の悲哀に胸を掻き乱しつつ、遠く人里離れた庄川の上流五箇山の山中に逃れ、弓矢持つ手に鍬鎌を取り、麦を蒔き、菜種を植え、麻を作り、人目を避けて安住の地と定めました。その末裔こそは、旧平村・旧上平村の起源と、口伝として今に残ります。
 平家が在りし日の栄華を追うて唄い出されたのが、麦屋節の唄と踊りの発祥の源です。麦を刈る時に歌ったので自ら麦屋節と変じ、紋付、袴、白たすき、刀をたばさみ、笠を手に持って古武士的哀調とその由来を物語るように、格調のなかに勇壮な舞となったのであります。麦屋節には男女それぞれの演舞の他、越中五箇山麦屋節保存会が継承する早いテンポで女性が踊る早麦屋や、祝い唄でもある長麦屋があります。
 例年、9月23日には下梨地主神社境内において、五箇山麦屋まつりが開催されます。
伝承団体:越中五箇山麦屋節保存会 越中五箇山民謡保存会 小谷麦屋節保存会

サイトリンク:五箇山麦屋節の歌詞

 

 

 

 といちんさ

 雪深い五箇山に住むサイチンという小鳥が早春の晴れた朝、「樋(とい)」や「筧(かけい)」を伝ってさえずる声に聞きほれ、敏捷な動きにみとれ、娘や母があの小鳥のように明朗に甲斐甲斐しく働くことを願い、口ずさみ、唄い踊ったと伝えられています。「樋」の「サイチン」の言葉が詰まってトイチンサとなったとのことです。
伝承団体:越中五箇山民謡保存会 

といちんさの歌詞